k10tokima’s blog

日々の健忘録。創作とか料理とか人権とか独り言とかライフハックとか、忘れないための引き出し。頭に溢れる文字起こし。

認知症の家族が手術する時に全権委ねられた孫の話

なんとか無事に乗り越えられたので良かった〜

色々思うことがあったのでメモメモ。f:id:k10tokima:20220422105001j:image

ばあちゃんの入院の手続きを孫がした件①

おきつねパーリナイ、どころじゃないw - k10tokima’s blog

 

認知症で老人ホームに入所しているばあちゃんが股関節頸部を骨折し(骨折自体は小規模)、翌日の4/19に手術となった件の続き。

先に結論を書いておくと1時間ちょいで無事に終わり、ボルト3本→2ヶ月入院でその後車椅子生活のまま老人ホームに戻れることになりました。良かったー!!

 

元々神経質でイレギュラーが苦手なじいちゃんはかなり心ここにあらずみたいな状態だったので、前日も入院手続きで20時に出る時も「買い物に行くからそのまま寝てて。いつもどおりに生活してね」と言い残して色々やってました。デイサービスもいつも通り行ってもらう。置き手紙で簡潔に「ばあちゃんの手術に付き添うからいません、無事なので安心していつも通りの生活をしてくださいね」と置いときました。たいていソワソワして怪我したりするからねこの人は…

 

翌日は9時以降に麻酔科の先生と手術のスケジュールを決めるから、とのことで8時頃から待機。実家に泊まってたんだけど裏の取り壊し作業でめっちゃ揺れて、実際の地震と作業の違いがわかりませんでした。

TVも観る気になれすD+は繋がらんしで何度も観たダイの大冒険2020を見ながらパンを食べてたら、13時から手術が決まりましたとのこと。

 

 

同意書などの書類を書いて、しばらく待たされる。ぼーーーーっとしてるうちに外出していた家族も14時過ぎには合流。15時過ぎに手術開始で、移動の時に母氏も数年ぶりにばあちゃんの顔が見れてよかったねぇと言ってました。

母氏もじいちゃんの娘で神経質で混乱しがちなので、ここまでくるのに何度も電話などで「とにかく私がいるから大丈夫やよ、落ち着いてね」と繰り返してたんすよね。おかげで落ち着いて外出も終えて来れた様子でした。

 

 

これは待ってる時に描いたみかん氏。
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これはやや冷静でいられてない母氏の…猫?「たぶんそう」とのことw
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そうこうしてるうちにサクッと1時間くらいでボルトで補強する手術は終了。部屋に戻る時のばあちゃんは心なしか顔色は良くて、「ありがとう」と言えていたので凄いなぁ。認知症とコロナ禍で会えてないからきっと我々が誰かとは分かっていないけど、お世話してもらってる人達への感謝ができるのは素晴らしいことだし、救いだなぁとホッとした。

 

 

 

怒涛の2日間を振り返って、ここまでよくやったなと思った。私がもし遠くに引っ越していたら?絶縁していたら?じいちゃんが20時にタクシーで向かったのだろうし、それはそれで二次被害が起きそうである。

 

手術や入院には本人以外の家族の同意が必要で、「いざという時に延命措置はしますか?救命措置だけにしますか?」と決断を迫られる。いきなりそういう目に遭うんだもんね。

私はこういう場面は初めてだったけどイメトレはしてあったし(色んな話は聞くからね)、いざという時の話も予めしている家だった。死の話をすることはタブー視みたいのがあるのか「ドライだね」なんて言われたものだけど、こういういきなり起きる時に必要なんだよね。

 

そしてイメトレ出来ていたのは、自分も弟もクィアであり、人間の法で認められたパートナーは恐らくいないまま過ごしそうであり、セクシュアルマイノリティカップルが今でも手術の時に家族として認められなくて転院したという話も半年ほど前に実際にあったりしてるからっていうのもある。

 

家族がいなかったらどうなるか?それはそれで天涯孤独の人の場合も色々と方法はあるんだろうけど、家族として暮らしているのにその手術やいざという時の本人の意向の話が出来なかったら、本当に辛いことだなと実感した。

 

母の知人にも、父Aが遺言で遠くに住む娘Bだけに「延命措置はしないでほしい」と行っていたけど、手術や同意書に立ち会った息子Cはそれを知らず、「延命措置してほしい」となったそうで、Bさんが到着した頃には脳死状態で延命措置がなされて「どうして!お父さんの意向と違う!」「俺は聞いてなかった!」みたいな揉め事があったと聞いていた。

それを聞いて我が家でも「延命措置はいらない」「脳死になったら臓器移植オーケー」「生前贈与とかどうする?」「墓や葬儀もきめとこ」と話し合ったりしたのだった。

 

 

マジで家族と話し合っといて良かったなと孫は思いました。

だって「延命措置はどうしますか」って言われた時とか「あーこれ取り乱す人いるだろうな〜」と思いながら「しなくていいと家族間で以前から話し合ってますので」とスッと言えて助かった。私は冷静でした。

 

 

ばあちゃんの介護にもかなり介入して症状とかも学んだりしたし、ばあちゃんの状態なんかも詳しかったから、医師や看護師や介護士さんたちも「なにこの孫??」となっただろうなと思った。

でもばあちゃんは年齢の割に割と丈夫な人だったから(70代でエスカレーターから転げ落ちても打撲程度だったし)、若い人でもこういう場面には遭遇する可能性はあるし、これを読んでる人は既に経験したことごあるかもしれない。

 

医療ドラマはしんどいから見ないし、実際とは違うし。

いざとなったらどうするか、頼られても縁を切ったままにするか、考えておいたほうがいいんだろうなぁ。クィアにはなかなか難しい問題だよね。

 

 

ちなみにちょっと都会のマンションを買った弟氏は「俺が死んだらこの部屋売ったお金で葬式してよ」とか言うので、「バっっカ、家族葬か私しか居なかったら葬式するわけねーだろ!あと絶対に部屋で死ぬなよ、事故物件にしたら許さねーからな」「気をつけるよwww」とか話してます。頼むぞ…

 

 

 

あと恐らく人生ではじめて、家族から「本当にありがとう、君がいて助かった」「本当にありがとう、スムーズに動いてくれて本当に助かったよ」と何度も何度も言われて驚きました。

何度も書いてるけど家族間の関係はあまり良いものではなかったので、ここまで心から感謝されるのも一人ぐらしによる物理的な距離感と、心理的な距離感のおかげだと思う。今までなかったの!?と思われそうですが、ありませんでした。やば。

家族間でも当たり前と思わず、ちゃんと感謝しあえる関係になれて本当に良かったな…と思いました。思わぬ作用がたくさんあるね。

 

あと「休職してくれてて助かったよ、体調悪いのにありがとうね」と言われたのもそれはそうで、体調悪かったけど動けたのは良かったし、休職してて良かったって言われるのは救われるな〜と思った。家族にちゃんと話しておいて良かったな…2月末に話したんだもんな

 

割と毒親な関係で色んな人に家を出た方がいいと言われて水面下で計画して実行した話が遠い昔のようだ…でも忘れないでいたい。

お引っ越しチャレンジの話 - k10tokima’s blog

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以下は介入しといて良かったなって死ぬほど思った介護の話。いつかちゃんとまとめたいなと思ってること。

老人ホームの介護士さんと入院手続きを待ってる間にこのあたりも話したので、この勢いで軽くまとめとこ。参考になったら幸いです。

 

 

ばあちゃんは施設入所前の精神科入院の3年前までずっとネガティブな人で、自分を憐れんでもらいたい人だった。誰かをsageてまで憐れまれたい人だった。とにかく辛かったことや虐められたことやじいちゃんに浮気されたことや嫌だったことをずっと繰り返し、他人の不幸話が大好きで、そこに自分を重ねることに癒やしを求めているような人だった。

恐らく何かしらの発達障害があったような感じもあり、時代もありそれを馬鹿にされることで笑って生存戦略で生き抜いてきたようなところがある。

33歳の時にじいちゃんの不倫からの蒸発によって恐らく鬱か何かも発症していたんだと思う。世が世なら離婚していておかしくなかったと思うし、それを言うと「あんたもお母さんも生まれてなかったんだから!」と言われる。ばあちゃんにとっては(一応恋愛で)結婚したこと、家族を築いたこと、一軒家を建てたことはかけがえのない誇りだったと思う。確かにそういう時代を生き抜いてきた人だった。

 

10〜15年は幻聴らしきものも見られたけど性格とか勘違いだと思っていた。あれは統合失調症だったのかレビー小体症によるものなのか今になってはわからないけど、早めに精神科の認知症外来に連れて行ってあげていたら、もっと早く楽な状態にしてあげられたのかもしれないとよく後悔するのだ。認知症外来はここ5年くらいで片田舎でも発達してきたものだし、介護は関わってなかったのでその概念は私も残念ながら知らなかった。10年前に異業種での介護福祉士取得の為に独学の勉強(つっても一問一答)と実技講習会の4日間に参加したけど、そういう病理的な部分や細かい症状は習わなかったなぁ。専門書とか買ったらちゃんと載ってたのかもしれない。

 

接客のお客さんとの会話で「おじいちゃんとおばあちゃん、今のうちに介護認定受けてデイサービスとか行ったらいいかも。離れる時間もお互いに大事だし、介護認定は早めに受けたほうがいいよ」と教えてくれて、じいちゃんが自転車で転んで怪我したタイミングでトントンと認定が進んだ。

ばあちゃんは介護認定1で、じいちゃんは要支援2だった。デイサービスに行くようになって少し落ち着いたり、予防接種したけどインフルに罹って1ヶ月ほど臥せってしまったりしたのち、だんだん元気になって安心した。

 

 

 

でもネガティブで個性的だなくらいのばあちゃんが、2017年頃から乾燥かアレルギーによる皮膚の痒みが悪化し、2018年には元々長かった入浴が4時間とかになり、明らかに心身が大変なことになってきていた。私と母氏で交代しながら入浴介助をすることになった。痒みっていちばん耐え難いと聞いたことがある。辛いから余計に心身が悪化して、どんどんネガティブなことのフラッシュバックが増えてきた。皮膚科や内科で出されてる安定剤や眠剤はずっと変わらないし、このままでいいのか?と辛そうな本人と同じくらい辛い家族みんなを見ながら知識のなさに愕然とした。

 

その頃介護施設長を努めてる友達にばあちゃんのことを話したら「最近は認知症外来で服薬治療することで改善が見られることが多いんだよ」と教えてもらい、縁があって今私が通ってる精神科の物忘れ外来に行くことになったわけ。

知ってました???私は青天の霹靂でした。

 

脳神経外科や精神科に併設されてることが多いみたいですね。でかい病院で脳ドックやってくれるところがいいです、それでレビー小体症とわかって、一気に治療方針が決まりました。

幻聴らしきことや色々なことが、ばあちゃんの性格ではなかった。脳の機能の問題だったんだ。

 

病院としてはすぐ入院したほうがいいという見解だったけど、ここで家族の「もうちょっと家でみていきたい」が始まったわけ。私は「いや見解のとおりだよ」と言ったけど、精神科医療がよくわからない私以外の家族は何故か家で介護を頑張ることを選んだ。うちみたいなドライな家族でもあるんですね。仲がいい家だとすっごい大変だと思うから、やっぱ予めそういう家ほど話し合った方がいいよ。

 

でも結局家族も本人も負担がでっかくて、4ヶ月後くらいには「いやもう本人も一番つらいし、家族ももうボロボロでしょ!?入院しようよ!みんな倒れるよ!」と進言し、病院に入院の意向を話したらサクサク決まりました。

ソーシャルワーカーとの面談でも私も付き添って「回復したら家に帰る感じですか?」と伺いだてて聞かれたときにすかさず「いえ、家族でも話し合って施設入所を考えてます」と言ったのは私。母が「えっ…」みたいに言ってたので「そういう話は昔からしてたでしょうが!」となだめたら、「そういう事でしたら一気に落ち着けるように服薬調整しますので、早くご本人も楽になれると思います」とのことでした。家に帰る前提だと強いお薬使えないんだって。もうよくないことだらけじゃん…

 

結局ばあちゃんは1ヶ月後にはすっかりと落ち着き、睡眠もとれて痒みもある程度おさまり、「治療のためにここにいる」という認識ですっかり穏やかになっていました。

 

施設長をやっていた友達いわく、「睡眠がしっかり取れて、穏やかな人は施設が決まるのが早いよ。だから早期治療をおすすめするよ」と言っていたのが本当で、施設がなかなか決まらないと聞いていた話が嘘のように、引く手あまたでオファーが6件もきてました。すっげ!選びたい放題じゃん!!!

 

これまた私のお客さんの提案もあり、とても良い施設に入れました。また今は終の棲家でもある老人ホームに入所してるってわけ。

場所によっては今回みたいな手術があるとホームに戻れなくなるとか、入院中は家族が付きそうとかあるそう。

看護師さんも「穏やかなので問題なさそうですねー」と拘束の同意書の時に言ってたし、うまく早期治療が合っていて良かったなと思いました。

 

 

 

 

 

今ばあちゃんはどうやら一番人生で穏やかだったであろう20代頃にいて、簡単な会話も出来るそうです。髪を切った私や母のことはわからなかっただろうけど、にっこりと笑ってくれるような優しさがあって、何よりだなぁと思うのであった。

 

小さいときから私はばあちゃんが苦手で、あんなネガティブにはなりたくないと思ってたし、他人を比べたり嘘をついて自分を憐れんでもらおうとするところとか嫌だったし、そうすることでしか生きてこられなかったばあちゃんの生き様はすごいなと思っていた。空気を読めない正直ゆえにいじめられたのは相手が最低だと思うと同時に、同性からターゲットにされやすい人なんだなぁと思ったりもした。そんなミソジニーを抱える女性が嫌いなのはばあちゃんをいじめるような人達だからだ。

 

とはいえじいちゃんや知らない親族の悪口を延々と聞かされるのは嫌だったし、じいちゃんの親族を嫌っているのに「家の名前を継ぐためにハトコと結婚したら残るんだよ」とか言ってきたりして、それは本当にやっちゃいけないことだと思う。おかげで私は家父長制に反対してるし、結婚も出産もしたくねーなという想いが自然とあるのであった。元もとクィアゆえの感覚なのかもしれないけどね!

 

入院するまでの最後の2年ほどの介護は本当にフラッシュバックがかわいそうで、憎しみや苦しみやつらさがすごいことになっていた。

それらがぜんぶ、本当に驚くくらい、スパーン!!!!と抜け落ちてくれた。こんなことあります!?!?!?

都合よく幸せで穏やかな記憶に、ばあちゃんはいます。

 

これは人類にとって大きな希望ですよ。

私もああなりたい。いいことだけ思い出せるタイプの老後、あるんだなぁ。

 

 

こういう施設入所までの歴史をザックリと介護士さんに話したら、本当に驚いていました。良かったですね、ほんとにね。

 

 

だから楽しいこといっぱい覚えていきたいな。

キレながらもそういう人生になるように、頑張っていきたいと思うのであった…!!